なめとこ山

人生はすべてつかの間のゲームだ
最後は皆同じ
死んで幕を閉じる
そうだろう?
(ペレ)


※このサイト内の文章は作品のネタバレを含みます。ご注意ください。

17/01/17
・昨年のベストを選ぶとしたら、Netflixのドラマシリーズ『TheOA』だ。傑作だと思う。シャマランが作ったTVドラマシリーズの『ウェイワード・パインズ』以上にシャマラン的だし、時にバカバカしく、時に胡散臭く、時に人の孤独に寄りそい、そして感動的なのだった。もちろんシャマランのようにはったりではあるのだけど、そのはったりに感化されて世界の見え方が変わるのであればその人には真実になりうるし、それでいいじゃないかと思う。といっても、その感想の裏を返せば、反社会的なカルト宗教の奇跡を目の当たりにして、それに感化されてテロを起こしてしまってもいいじゃないか、と言っているのと同じことだけれど、でもそれもまたその人にとっての真実だ。
もうひとつは元リキッドリキッドのリチャード・マグワイアのコミック『HERE』だ。もう書籍は図書館で借りて自分では買わないと決めたのに、それでも手元に一生置いておきたくなって買ってしまった。横ではなく、縦に引き延ばされた『奥村さんのお茄子』だ。

16/08/27
・映画「シン・ゴジラ」を観る。
現代でゴジラのようなモンスター映画を撮る際、採れるべき選択は少ない。ゴジラを前にしてなす術もないまま逃げ惑う普通の人間の姿を撮るか、現実的に現代の軍事技術や制度の中でどのようにゴジラを対処出来るのかを撮るか、せいぜいそのあたりに絞られると思う。「宇宙戦争」や「グエムル」は前者だったが、「シン・ゴジラ」は後者の選択を選んだ。平成ゴジラのような人間ドラマを盛り込みつつ、個人のヒロイックな活躍を変に描いたりすれば、それは現実とは全く乖離したファンタジーにしか見えず、空しいだけだっただろう。勿論フィクションとは作り話であるのだけれど、今のこの現実を反映せざるを得ないものなのだから。初代ゴジラは人々から戦争のトラウマを浄化させる役割を担った。塩田明彦の言葉を借りれば、ゴジラとは神話である。だからこそ、現代でわざわざゴジラを撮る意義というのは問われる。福島のメルトダウン以降を経たものが描かれていなければ、わざわざゴジラをリブートする意味はない。そういう観点では、「シン・ゴジラ」はかなり健闘している。

ただ、自分には「シン・ゴジラ」を観ることで震災を浄化するまでには至らなかった。むしろ、「巨神兵東京に現わる」のように破壊と混沌しかないもの方が、不条理で生々しく思える。現実の震災を前にして、人間にはなす術が全くなかったように。ただ絶望のまま逃げ続けるだけの「宇宙戦争」が今なお心に深く残るのはそこだろう。

石原さとみが演じる役は酷かったが、問題は彼女の演技ではなく、この役を作ってしまった脚本の方にある。陳腐な人間ドラマが入り込む余地がない、リアル(そうに見える)手続きや実務を積み上げているのがこの映画の美徳なのにも関わらず、石原さとみの役はそれとは正反対の人間ドラマや嘘っぽいファンタジーを作品の中に持ち込んでしまった。むしろ、こんな胡散臭い役をとても真剣に熱演していて、石原さとみ自体には好感を持った。

・庄司創「白馬のお嫁さん」3巻を読む。
未来の日本で男子高校生たちが嫁探しをする婚活マンガの最終巻である。遺伝子改造されてはいるが性的にはノーマルな異性愛者の男性の清隆は、自身が抱える問題が解決されたことで突如として婚活仲間の学への恋愛感情を意識する。学は外見こそ可愛らしい女性に近いが、特殊な生殖器をもつ「産む男」で恋愛対象は「産む女性」であり(「産む男」の中には、「産まない男性」を好きになるタイプもいる)、学の理想からも自分がかけ離れていることから、清隆は煩悶しながらもこの恋愛から降りることを選択し、大切な友人である学の幸福を支えることもまた己の幸福であると強引に自分を納得させようとする。
一方、密かに清隆の気持ちを知った学は、バーチャルルームで仮想の清隆の胸に自分が抱かれてみても恋愛感情を何も感じることが出来ないが、ロボット注射のアシストがあれば同姓である清隆を好きになることも出来るかもしれないと考える。「でもそこまでするべきなんだろうか」と思い悩む。それをしてしまったら、学は清隆に限らず他の人間だって同じように受け入れてしまえることを意味する。そして、学は自分が理想とするような異性の女性からアプローチをかけられている最中でもあった。清隆を拒否して彼女を受け入れることで抱く胸の痛みを、薬で消すことだって出来る。でも、学もそう簡単には清隆への友愛の情を割りきることが出来ないでいるのであった。清隆と学の二人の煩悶が、スリリングなまでにこちらに伝わってくる。

愛と聞くと、カサヴェテスや増村のような激烈な愛がまず頭に浮かぶが、この作品内で描かれているように、恋愛至上主義だけではなく恋愛から自由になる心の在り方だってあるのだ。胸を一度もときめかせることないまま、相手を生涯の伴侶として受け入れることだって出来る。未来の技術のアシストがあれば、脳内の分泌物を薬剤やナノマシンで調整することによって、大嫌いな相手すら好きになることが可能になるかもしれない。ぼくらが自分自身の意思で選択出来ていると思いこんでいるものは、実際はきっと想像する以上に少ないのだろう。じゃあ、人が相手を好きになるっていうことは、一体どういうことなんだろう? 人は人をどのように受け入れていけるんだろう? ということをこのマンガは描き出そうとした。終盤、学が清隆に告白する「不安やつらさを含んだ複雑な好きの美しさ」の下りが一つの答えになるのかもしれない。正直その部分をちゃんと消化し切れているとは思わないし、色んな理屈や考察が描かれていても、最終的にはなんとなくの雰囲気で誤魔化されてしまっているようにも感じる。それでも、これは読まれるべき果敢な傑作であることには間違いない。強引な比較だとはわかっているが、同じように複雑なジェンダーを取り扱ったマンガとして「放浪息子」とかが辿り付けなかった高みへ、このマンガは行きつけている。

単行本のカバー裏では、病院内で不安げな面持ちの清隆の傍らで、瞼を閉じたままの学がロボット注射を受けている場面が描かれる(おそらく同性への性的指向を持つことが出来る分泌物を発するナノマシンのようなものが注入されているのだろう)。個室に案内され、薬が効き始めてからは清隆の顔を見つめ続けるよう看護師から学は指示を受ける。目を開いた学は、清隆とお互いを見つめ合う。学の表情は病院の窓から刺す陽光のように柔らかく、穏やかだ。二人の表情に微かな戸惑いは残っているものの、もう不安は見当たらない。本編に入っていないのが悔やまれるくらい、本当に美しい場面で震えてしまう。未来の技術や性のありようが、グロテスクにでもディストピアのようにでもなく、ごく自然に肯定的なものとして描かれていて、畏敬の念すら抱いてしまう。そのようにテクノロジーで作られる愛の形があっていいし、未来の世界には実際にありえて欲しい。「産む男」が存在する世界の方が、ぼくが生きている今のこの世界よりずっと良さそうに見える。きっとグレッグ・イーガンにだって、村田沙耶香にだって、こんな未来の在り様は幻視出来ない。清隆と学が生きる世界が羨ましい。

16/07/06
・黒沢清「クリーピー」を観る。
 この作品ではおぞましい惨劇が描かれるが、どうしても北九州監禁殺人事件を想起してしまい、現実に起こった事件とこのフィクションを較べてしまうと、現実の圧倒的なまでの陰惨さの方に軍配をあげざるをえないのである。黒沢清は、今のこの現実そのものがこの作品で描かれている状況と似たようなものだと言いたげではあるが。
 竹内結子のラストの絶叫は、すごくよい。観客は胸に不快な染みを塗りたくられたまま劇場を後にするしかない。
 最近の黒沢清はいわゆるテレビ的な、映画俳優としてはあまり魅力があるとは思えない女優をあえて使って、結構悪くない、というか案外魅力的に映すことに成功している。以前の作品の綾瀬はるかなんかもそうだし、今作の竹内結子もそうだ。女性の魅力を上手く引き出しているわけではなく、どんな俳優であろうと演技にさしたる興味がないまま、全て同じ「モノ」として等価に見ていることに起因するのではないかと推測する。香川照之のような情念系と、西島秀俊のような能面系が、なんとなく同じ画面におさまってしまえるのもそれゆえだろう。
 最近の傾向だが、わかりやすいヨリのサイズを多様し、ちゃんと商業映画を撮りたがっている節がある。
 自分にとっては、90年代の黒沢清こそが面白かった。映画の可能性のようなものを存分に感じ取られたし、この世界の真実のようなものも描き出されもした。今作が退屈な作品とは思わないが、この作品を観ることが、観る人に何か決定的な爪痕を残す特別な体験になりえるとも思わない。

16/03/16
・「ロブスター」「サウルの息子」を観る。
 「ロブスター」は、臆面もないくらいゴダールを意識している。特に80年代あたりのゴダールがよくやるシュールなギャグの部分を、全編をかけて延々とやっている。ひとりものになった男女はホテルにおしこめられ、その場所で一定の期間のうちにつがいの相手をみつけないと動物に変えられてしまう社会の中のある男の行く末を描いたというあらすじに興味を惹かれたのだが、特に扱われている題材に対する批評的なまなざしがあるわけではなく、ふわふわと無邪気に撮っている。この作品が自主映画ならば、その楽しさに興奮出来たかもしれない。自主〜ピンク映画時代のゴダールかぶれの黒沢清のいくつかの作品は、今見ても面白いように。でも、この映画はゴダールの過激な部分ではなく、表層的にかっこいい部分だけをなぞらえているだけのように思える。だから見ていて驚かされることがなく、ぬるい印象だけが残った。
 一方、「サウルの息子」は、単なる好悪を越えて、何を見せ何を見せないかの取捨、登場人物と見る者のどちらの心情にも寄りそう超絶なワンカットから、こちらの網膜に爪痕を残すような熾烈さを感じた。

16/03/04
・トッド・ヘインズ「キャロル」を観る。
メロドラマは、周囲の無理解、迫害、逆境の中にあってこそ光り輝く。どれほど悲惨な目にあおうと、自分の中の真実だけは手放してはいけない。この作品は、そのような高潔さを持つ。
この映画を自ら評したケイト・ブランシェットの言葉が素晴らしい。

演技というのは、自分の知らない人と“繋がる”ことなのです。この作品で描かれる愛は1950年代にはまだ犯罪だった。パトリシア・ハイスミスは犯罪小説の女王として有名だけれど、『キャロル』では殺人ではなくて”愛”という犯罪を描いたんです。
(ケイト・ブランシェット)

16/03/01
・タランティーノ「ヘイトフルエイト」を観る。
リオ・ブラボー的というか、ホークスというよりもジョン・カーペンター的と言った方が適切だろうか? というのも、カート・ラッセルがメインキャストとして出演しているからとか、「要塞警察」や「遊星からの物体X」を思い出す部分があるからというだけではなく、本来ならば立場的にも思想的にも隔たりのある人間たちが、自らが置かれた状況ゆえしがらみを超えて目的のために共闘する。自分はそういうものを見るとちょっと崇高なものに触れてしまったような気持ちになってしまう。それこそが自分が言うジョン・カーペンター的というものである。じゃあすごくいい作品なのかと問われると、いかにもタランティーノっぽい過剰さや俗悪さに溢れているし、タランティーノ作品としても何か新しいものを見られるという映画では決してないのだが、カーペンター的な部分はこの映画の美徳として印象に残る。

15/12/06
・川上未映子の「あこがれ」収録の一篇「苺ジャムから苺をひけば」を読む。
 「ミス・アイスサンドイッチ」が「ぼく」=麦彦の一人称だったのとは逆に、小学六年生になったヘガティの一人称で物語が進む。「ミス・アイスサンドイッチ」の時と較べてヘガティが幼く思えるのは、「苺ジャムから苺をひけば」においての名言をはく役割を麦彦に担わせているからだろう。そう考えると、作者が言わせたい決め文句みたいなものが出てくるやりとりの間だけ、彼らは天才になってしまう。もちろん子どもは哲学者で、鈍感な大人が気付きもしないような世界の真実を知っていると言うことは出来るが、「あこがれ」の二編からは作為に感付いてしまう部分がある。作者の腹話術を察知してしまうというか。
 トム・クルーズが画面に出てくると物語が始まる予感がする、何か冒険のようなものが始まりそうでわくわくさせられる、トムはそんな顔をしているっていう麦彦の感想には全面的に同意する。「ヒート」に続いて「コラテラル」という、少し外したチョイスも上手い。これらの妙に映画ファン的な視点からは、阿部和重の影を感じる。

15/12/03
・川上未映子の「あこがれ」収録の一篇「ミス・アイスサンドイッチ」を読む。
 素晴らしい場面がいくつかある。小学四年生の「ぼく」のクラスメイトであり、映画「ヒート」の銃撃戦が好きで毎日繰り返し見続けたために完コピが出来るまでになったヘガティが、「ぼく」と一緒に「ヒート」のDVDを見た後にその銃撃戦の真似を披歴し始め、それを見た「ぼく」がヘガティのかっこよさに圧倒されるシークエンス。なんで銃撃戦? リエナクトメントとは違う。読んでいるぼくも、驚いた。ヘガティが「不思議なのは」と言うように、どうしてこんな過剰なまでにこの映画の銃撃戦が好きなのかっていうこと。「ぼく」が密かに憧れをもつスーパーのサンドウイッチ売り場の女性ミス・アイスサンドイッチに会いに行くように諭したヘガティが、「ぼく」のくよくよした宙吊りな態度を見て、踵をひきずるように歩きながら、二人の別れの合言葉である「アル・パチーノ」を叫ぶ「ぼく」を置き去りにしてどんどん遠ざかってゆくシークエンス。なんだろう? このハードボイルドな遊びは。まるで「シェーン、カムバーック!」と叫ぶ西部劇の名場面のように見えてくる。ここに書き連ねたくなる程いい箇所は他にもいくつかある。子どもを描いた時の川上未映子は、本当にセンスのかたまりだ。子どもの論理を、文章で会得している。
 でも、それでもこの「ミス・アイスサンドイッチ」にはがっかりしてしまった。個々のシークエンスには素晴らしさがみなぎっている一方、全体としてはこれまで何遍もトレースされてきた有り体の通過儀礼の物語の域を出ていないからだ。これじゃあ、どこかで見たよくあるいい話と大差がない。ぼくはきっと、川上未映子から「ドイツ零年」や「ションベンライダー」のように突出した子どもの物語が生まれるのを期待しているのだろう。「ヘヴン」は素晴らしかった。でも、これでその後を継ぐには優しすぎて物足りない。震災後の世界を肯定できる物語を標榜したのだとしても。あと、作中でたくさんのひれ伏したくなるような名言を産み落とすヘガティ(彼女のあだ名の由来もすごい)は、いくらなんでも聡明過ぎるんじゃないか? と気になった。小学四年生の頃の自分が、本当に何も考えてなかったからそう感じるのかな? 中学生くらいになるまで、ぼくは世界と自分が分離していないぼんやりとした生を生きて来た気がするから。


・ポール・トーマス・アンダーソンがPVを撮っている。ラフだけど、素晴らしい。彼女自身が出演している「インヒアレント・ヴァイス」以上に。
Joanna Newsom "Sapokanikan"
https://www.youtube.com/watch?v=ky9Ro9pP2gc

 

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